罪を意識する英米人、恥を意識する日本人
さて、本日は少し哲学的な内容の記事を書きたいと思います。日本の文化をよく知る外国の方々はすでにご存知かもしれませんが、日本人が非常に気にする世間体について本日は記事を書きたいと思います。日本人は恥しがり屋であまり、外国人とは話したがらないっという話を聞いたことがあるかもしれませんが、これについて欧米と日本人を比較した学者さんがいます。今日はその方の書いた本の話をしたいとおもいます。
(1)「罪の文化」の欧米
① 恐ろしいのは神の声
アメリカの文化人類学者にルース・ベネディクトという女性がいましたが、この人は日本が敗戦する1年前の1944年に「菊と刀」を書きました。これは、日本人の国民性を研究したもので、日本の降伏後、日本をいかに占領統治していくか、その基本的路線の青写真となったものです。
その中で、女史は欧米の文化は「罪の文化」であるのに、日本人の文化は「恥の文化」であると規定しました。以下、少々その説を見てみましょう。
キリスト教文明の欧米では、行動の規範には宗教の戒律があり、神の戒律を守れば、心は清澄、一点の曇りもないのですが、それに反すると強い罪の意識を持ちます。彼らの心には常に神がいるのです。それをベネディクトは「罪の文化」と呼びました。
(2) 「恥の文化」の日本
恐ろしいのは世間の目
多神教の日本では、神や仏の意識はそれほど強くはありません。強く意識するのは世間の目です。狭い日本、多くの人間の中で生活して行かなくてはなりませんから、常に他人の目を意識しないわけにはいかないのです。怖いのは神や仏ではなく、他人の目であり、他人の口です。他人に笑われたくない、恥をかきたくない、これが日本人の行動を規定するというのです。つまり、正しいかどうかで行動を決めるのではなく、世間がそれをどう思うかで、自分の行動を決めるというのです。これが「恥の文化」です。
これは、日本人がアイデンティティを求めているからだという人もいます。すなわち、戦後の日本人の努力は.まず国の復興.次いで西欧化・工業化に向けられましたが、それに夢中になりすぎたあまり、自分のこと、自分のアイデンティティは忘れてしまった。それを反省し、自分たち自信の姿を見つめ直したいという気持ちからだというのです。それにも一理はあるかもしれません。
また、罪の文化では、罪を犯したものはそれを告白することで心の重荷を下ろす。しかし、恥の文化では、罪を告白しても心は軽くならない、それどころか悪い行いが世間に知れない限り、心は悩まないのです。ここでは、幸福を祈願する儀式はあるが、贖罪の儀式はありません。
「恥の文化」には、人前では恥をかきたくないという意識から、義理を重んじ、人情を大切にする気風が生まれます。さらには名誉を重んじ、ときには大義のために一命を投げ打つというような、高潔な行動となって人々の称賛の的になります。第二次世界大戦時の神風特攻隊を思い浮かべてください。
他人の目にさらされ、従順を重んじるために若き命の多くが失われましたが、彼らの多くは自分の命の短さを嘆くのではなく愛するもののために、そして日本のためにという思いで死んでいきました。
彼らの行いをどのように理解するかは個人の自由ですが、「恥の文化」「周りの目」がその一翼を担っていたという事はまず間違いない事でしょう。
以上!日本人の心にある「恥」と「他人の目」に関する記事でした (*´∀`*)ノシ